絹織物の生産方法が伝来し日本に広まった、古墳時代

絹の伝来 中国後漢より古墳時代の日本へ

 

絹が日本に伝わった時の物語です。

 

aa8d2ad90a2d9ece3b369010504efdc4_s
 

中国では倭が勢力を着け、漢の領地を奪っていた時代、

中国の後漢(東漢)の第12代皇帝、霊帝の直径の子孫に、

阿知使主という人がいました。

 

阿知使主は、当時、帯方郡と呼ばれていた、

朝鮮半島の中西部へ、魏に追われて移住しました。

 

中国の歴史では、後漢が滅び3国時代に入り、

3国が勢力を拡大していた時代のようです。

 

西暦220年以降ではないかと推測されます。

 

 

朝鮮半島に魏の勢力が及んできたため、

阿知使主は、子と一族や部下を連れて、

日本へのがれ、

天皇をに使えることを申し出ました。

 

当時の応神天皇が阿知一族に、

大和の国明日香に領地を与えたそうです。

(記録では、応神37年、西暦だと306年だそうですが、

応神は24年しかありません。

日本書紀では応神20年 西暦289年)

 

阿知使主が天皇に仕え領地を与えられたということは、

日本人に帰化したということなんです。

 

 

後漢の時代は、天文学や数学、医学

科学技術が大きく進歩した時代です。

 

地球儀が作られ、円周率が計算され、

麻酔技術も生まれたんです。

 

そんな進歩した国にいた阿知使主は、

日本は遅れていると感じたようですね。

 

当時の大和国は、古墳時代の初め頃です。

 

阿知使主は、応神天皇に申し出て、

絹の生産と織物の生産を日本に広めることになります。

 

849382a40905db8baab9567e1ca8eb45_sr
 

阿知使主は、3国時代に入った中国の呉に、

息子を使者として行かせて、

呉王より、選りすぐりの機織り技術者、

縫工女を貰い受けたそうです。

 

(この時は応神41年、西暦だと310年だったそうですが、

呉が滅びたのは西暦280年ですので、使いが行った国は、

西晋~317年、東晋~420年かもしれません)

 

西暦313年、

仁徳天皇に使えることになった阿知使主は、

全国から、たくさんの女性を集めたそうです。

 

阿知使主が中国から連れてきた技術者が、

養蚕、糸紬、染色(これらを縫工と言ったようです)、

機織り技術を教えたそうです。

 

仁徳天皇は全国に養蚕を奨励し、広めたと言われます。

 

14dff9f7066f7a225bbcd8ab3fb23217_s
 

生産された繭は、阿知使主が建てた縫殿におさめられ、

織殿で色とりどりの反物になりました。

 

縫殿、織殿は各地に造られたようです。

 

こうして、宮中で皇族がまとう衣装も、

各国の貴族が行事の時にまとう衣装も、

階級ごとの色や形が細かく決められるようになりました。

 

応神天皇、仁徳天皇が、絹を取り入れ、

全国に生産を広めさせた歴史があるため、

今でも、大日本蚕糸会の総裁は、

皇室の方がなされておられます。

 

皇室が何千年も続いているのは、

世界中で日本だけです。

 

どんな説があっても構わないですが、

王家が何千年も続いているのは、

自慢できることなんですよ。

 

17d13da1414829fb3ba94ec6afa5ae05_s
 

戦後教育で、日本は歴史を歪めてしまいました。

 

歴史の教科書は嘘だらけになりました。

 

存在していた人物を存在していないことにし、

やっていないことをやったことにし、

日本人に、劣等感を植え付けていきました。

 

 

国の歴史、人の歴史を認めないことは、

あなた自身のこの国での存在を、

認めないのと同じではないでしょうか?

 

 

あなたが、自分が過去に歩んだ道や、

お世話になった人、迷惑をかけた人との関係を、

同様に、もし、否定するならば、

それはあなた自身の存在の否定でしかありません。

 

古墳時代に絹の伝来があり、

昭和まで日本中で養蚕が続いていたから、

近代稲作があるんですよ。

 

 

スポンサーリンク